今年、そのコラムニストに関する関連書籍も発売されると聞いています。
今回はそのコラムニスト「ナンシー関」について迫ってきたいと思います。
心に残り続けたナンシー関
彼女は消しゴムはんこで毎回有名人を掘り、羽に衣着せぬ文章とともに世の中を切って切って切りまくっていきました。
当時は今のような SNS もない時代です。
もし今彼女が存在していたのなら、私は彼女が毎日「炎上」していたであろうと懸念してしまいます。
彼女の発信はある意味面白く、また危険もはらんでいます。
彼女は若くして亡くなりましたが、今なお人々の心には残り続けているのです。
彼女なら、現代の記事をどう思う?
私が今回購入した「何がどうして」(角川書店、2002年)は、彼女の作品の 1つ。
彼女が亡くなって数か月後に発行されました。
私はライターとしてさらに本業では記者として働く身です。
文書能力が必要と言われて久しいこの業界で、少し気休め程度に彼女の文章を読むことも多々あります。
そうすると、なぜだか本業にも良い影響が及ぶのです。
何かと私は硬い文章しか書かないため、少し柔らかい文章を読むと発想力がまた豊かになるのです。
現在、世の中にはいわゆる「こたつ記事」という記事が溢れています。
自分で取材をすることなく、テレビで見た内容をそのまま記事に落とし込むだけの簡単な作業といえましょう。
彼女がやっていた相当な苦労の一方、こんな簡単な記事が世の中に溢れきっているのです。
この状況を彼女が知ったとき、彼女はなんと思うのでしょうか。
きっと「今までの私の努力は何だったのか」、「なぜこのようなビジネスが存在しているんだろうか」と思うに違いないでしょう。
逃げる理由
私の中には思ったことを直接書くと言いうマインドがあります。
もちろん、本業ではそれなりに考えて書かなければならないのですが、様々なペンネームを駆使して書く雑誌などでは、そんなこと考えずに言いたいことをたくさん書かせていただいています。
この世の中は、言いたいことが言いづらい世の中になったと感じています。
SNS を通じて様々な「自称専門家」が現れるとともに、「炎上」も増えてきていると感じています。
現代は言いたいことを言って良い世の中なのです。
ただし、「炎上」が起きてしまうことによって、人によっては炎上を恐れるあまり言いたいことが言えなくなったり、萎縮したりするといったことが見られるかもしれません。
私はそういったことが非常に大嫌いです。
言いたいことを言って過ごすのが何より表現の自由でもあるし、その人のストレスを発散させる方法でもあると思っているのです。
ナンシー関さんも短い生涯を終えましたが、せめてもう少し仕事量をセーブするなどすれば、今年還暦を迎えて今起きている事についてコラムを書いていたに違いないと思っています。
彼女なき今、彼女について語るのは想像であるほかありません。彼女はいないのだから。
ただ彼女がいたと言う事実は本物です。
私は一記者、一ライターとして彼女のことをこれからもずっと伝えていきたいと思っています。
最後に
今回はナンシー関について触れてきました。
巷では安倍首相と宗教団体との関係がクローズアップされていますが、きっとナンシー関さんだったら、どう論じていただろうと今ふと考えてしまいます。
元首相が銃で撃たれるという衝撃の事件が起きるような物騒な世の中になってしまいましたが、これからどうやってこの日本社会について考えていけばいいのかというきっかけを、銃弾に倒れた安倍元首相は教えてくれたということもできるでしょう。
とにかく亡くなられた安倍元首相のご冥福をお祈りいたします。